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東京地方裁判所八王子支部 平成5年(わ)844号 判決

主文

被告人を懲役一年六月に処する。

未決勾留日数中九〇日を右刑に算入する。

本件公訴事実中、覚せい剤取締法違反の点については、被告人は無罪。

理由

(犯罪事実)

被告人は、平成五年七月二七日昼ころ日隈勝利(当時二二歳)と作業の仕方で喧嘩口論となって同人から木の棒で左腕部を手酷く殴打されたうえ首を締められるなどの暴行を受けて負傷したが、その喧嘩は同日午後七時半ころ上司に呼び出されて仲直りさせられるところとなったため、被告人において右日隈を宥恕するつもりで同人に握手を求めたところ、同人からこれを拒否されたことに憤懣を抱き、その意趣晴らしに、同日午後一一時二〇分ころ、東京都八王子市〈住所略〉宿舎一〇四号室において、右日隈の右膝部を登山ナイフ(刃体の長さ約一二センチメートル)で刺し、よって、同人に右膝窩部刺創、膝窩動静脈断裂等の傷害(平成六年二月治癒見込み、後遺症・右足関節部の屈曲障害と知覚障害)を負わせたものである。

(証拠)〈省略〉

(累犯前科)

被告人は、平成三年八月二八日川口簡易裁判所において窃盗罪により懲役一年二月に処せられ、同四年九月二七日右刑の執行を受け終わったものであり、右事実は、検察事務官作成の前科調書により認める。

(法令の適用)〈省略〉

(平成五年(わ)第八四四号覚せい剤取締法違反被告事件について無罪理由)

一  公訴事実の要旨

被告人は、氏名不詳の男と共謀の上、法定の除外事由がないのに、平成四年一二月二八日ころ、千葉県船橋市〈住所略〉会社寮二階の当時の被告人方居室において、覚せい剤水溶液若干量を右氏名不詳の男が被告人の身体に注射し、もって、覚せい剤を使用した。

二  当裁判所の判断

1  弁護人は、「被告人には、公訴事実の日時に氏名不詳の男から注射された水溶液が覚せい剤であるとの認識がなかったので、犯意を欠き、無罪である。」旨主張する。

2  (検察官指摘の被告人に覚せい剤性の認識があったとみるべき根拠について)

これに対し、検察官は、「被告人の供述は要するに、『パチンコ店で遊戯中、見知らぬ男から、いいものがあるよ、スーとするからいいよ、などと腕に注射する真似をしながら言われたことから、その男を自分の部屋に連れて行って、一回分五〇〇〇円で六回注射して貰ったところ、気分が悪くなり、救急車で病院に搬送されて、治療後、病院の連絡により来た警察官の職務質問を受け、船橋警察署に行って尿を提出した後逃走し、偽名を用いて八王子市内の工事現場で働いていた。男から注射して貰う際、ベタスだと思っていたところ、ベタスはアンプルに入っているのに、その男が出した物はビニール袋に入った白い粒状の物であったことから、ベタスではないと思い、その男にそれは何だと聞くと、カルキだと言われ、それが市販されていない違法な物だと思った。』というものであり、被告人の右供述によれば、被告人は当該薬物が覚せい剤であることを知りながら氏名不詳の男から注射して貰ったと考えるのが合理的である。」として、そのように考える根拠を幾つかあげている。

そこで、被告人の供述内容の正確なところはあとでみることにし、まず、検察官が、被告人において当該薬物を覚せい剤であると知りながら注射して貰ったと考えるのが合理的であるとする根拠について検討してみよう。

(1) 最初に、検察官は、「被告人が、見知らぬ男が注射しようとしているのがベタスではないことは十分理解していながら、男に一回分五〇〇〇円も支払って注射して貰うこと自体あり得ないことであるし、被告人が男から六回も注射して貰った点についてもにわかに信じ難い面もある。」と指摘する。

確かに、被告人の右の行動状況は軽率すぎるとの印象を免れないものである。しかし、これは被告人が捜査段階から供述し、被告人の取調べを担当した警察官及び検察官ともこれをそのまま録取しているところであって、その録取された供述内容は後記のとおり具体的、詳細かつ一貫しており、本件の捜査の端緒が、被告人の右薬物使用による急性中毒症状により救急車で病院に搬送されたことにあることからすれば、被告人が急性中毒症状に陥った原因である薬物の使用状況についてことさらに嘘をついているとは思われず、薬物使用状況に関する被告人の供述を信用できないとすることはできない。

(2) 次に、検察官は、「厚生省などにより、覚せい剤が白い粉ないし小さい粒状で通常ビニール袋に入れられ、主に水に溶かして注射使用するものであることについて、広報活動が新聞、テレビ等により広く行われていることは公知のことであり、従って、被告人も、男が出したビニール袋に入った白い粒を見れば、少なくとも覚せい剤ではないかという疑いを持つはずであるのに、覚せい剤であるとは全く考えもしなかったとする被告人の弁解自体、あまりにも不自然であって到底信用できるものではない。」とする。

検察官の主張は、一般論として成り立ち得ても、男が出した覚せい剤の形状は、被告人の供述をみると、①「ビニール袋に入った白い粉」(平成五年八月一八日付け警察官調書)、②「米粒位の大きさの丸い固まりで無色透明の粒がたくさん(覚せい剤の見本の白い粉末の入ったそれと比較すると0.1グラム位)入った一辺がチャック式の横四センチメートル位、縦七センチメートル位のビニール袋」(同月二〇日付け警察官調書)、③「ビニール袋から米粒位の大きさのもの二つ」(同月二三日付け警察官調書)、④「私の思っていた覚せい剤を入れるというビニール袋とほぼ一致した大きさのビニール袋から丸い粒」(同月二四日付け警察官調書)、⑤「小さなビニール袋入りの粒状の白いもの」(同月二六日付け検察官調書)となっており、必ずしも一貫した表現ではないのであるが、右の各供述調書におけるその記載状況等からすると、右の②が被告人により具体的かつ詳細に述べられた男が出した覚せい剤の形状であるとみられる。そうだとすると、そのビニール袋は、長方形で比較的大きなものであり、また、覚せい剤も米粒状の無色透明の結晶であって、警察官が示した「覚せい剤量目見本表」にある白色粉末とはその形状及び風袋とも著しく異なっている。被告人の目撃した右のビニール袋入り覚せい剤が一般的な覚せい剤の形状及びその風袋であって、それが公知の事実となっているとは言い難く、確かに、覚せい剤使用を撲滅するための広報活動や覚せい剤事件についての新聞報道等がなされており、これにより被告人が覚せい剤に関する知識を得ていたことは認められるものの、その知識の程度も、被告人が公判廷で供述するところによれば、「こういうでかい袋だとか新聞でよく出ますよね。その程度で知っているだけです。(覚せい剤についてのテレビドラマ)は見たことがあります。覚せい剤は画面に出てこなかったけれども…」というものにとどまっており、本件のようなビニール袋入り覚せい剤の映像を新聞等で見たわけではない。

そうすると、本件のビニール袋入り薬物を見て被告人が覚せい剤であるとは全く考えもしなかったということに疑問(なお、被告人の公判での弁解内容は、その言いたいところを把握しにくいところもあるが、「男から、覚せい剤だと言われていたら、私は注射しませんでした。もしかしたら覚せい剤かも知れないという気持はありましたが、でもベタスだという気持が強かったので、半信半疑でした。」というもののようである。)を持ち得ても、これをもって直ちに被告人が覚せい剤かも知れないと思ったとみるべきことにはならない。

なお、被告人は、捜査段階で、「覚せい剤であると思った。」旨の供述調書の作成に応じているが、その供述調書の信用性については、あらためて検討することにする。

(3) 検察官は、「被告人は、尿を任意提出した後、船橋市内から姿を隠し、偽名を用いて八王子市内の工事現場で働いていたのは、覚せい剤を使用したことにより警察に逮捕されることをおそれていたからにほかならず、このことからも被告人が覚せい剤と知りながら注射して貰ったことは明白である。」とする。

そして、被告人も、当公判廷において、覚せい剤事件により逮捕されることをおそれて逃走したことは認めている。しかし、その逃走状況について、検察官は、「被告人は、警察官から覚せい剤反応が出た旨教えられたので、捕まると思い逃走した旨弁解するが、捜査の常識からして、捜査官がそのようなことを教えることは絶対あり得ず、被告人の弁解は採用できない。」とするが、被告人は、当公判廷で、「警察に電話をして尿の鑑定結果を尋ねてみたところ、警察官から、『いいから来てくれ。』と言われた。私が、『もう調書も取ってあるし、結果が何ともなかったらいいんじゃないんですか。』と言ったのに、警察官が、『いいから来てくれ。』と言うので、おかしいな、ひょっとしたら覚せい剤反応が出ているんじゃないかと思って、それで行かなかった。」と供述しているのであって、検察官の要約するような弁解は、被告人は捜査段階でもしていないのである。そして、被告人の右の供述を疑うべき事情はみられない。

ともあれ、被告人が尿を提出したのは、急性薬物中毒症状が出た直後であって、その尿中から薬物反応が出ることは通常予測されるところであり、被告人に覚せい剤を使用したとの認識があったとすれば、あえて被告人から警察署に電話をかけて尿の鑑定結果を問い合わせるまでもなかったはずであり、そうすると、被告人の「尿を出す時点で、警察官から、覚せい剤反応が出るかどうか調べると言われたが、私は、覚せい剤とは違うと思っていたから、捕まらないと思って尿を出した。」旨の公判供述も直ちに排斥し難い。

従って、本件においては、被告人において自己の尿中から覚せい剤反応が出たと知って逃走し偽名を使っていた事実が、被告人が薬物を使用する時点でそれが覚せい剤であると認識していたことの間接事実となるものではない。

3  (自白調書の信用性について)

検察官は、「被告人は、警察捜査の初期の段階で、覚せい剤である旨の認識を否定していたが、検察官の弁解録取や引き続き行われた勾留質問の裁判官の前では、事実を認め、更に勾留期間満期近くに至ってからは警察官にも事実を認め、検察官に対する自白調書もあり、被告人のその自白調書は信用できる。」旨主張する。

そこで、被告人の右自白調書の信用性について検討する。

(被告人の捜査段階での供述状況について)

まず、捜査段階での被告人の供述状況をみる。

①  被告人は、逮捕直後、警察官に対して、「注射して貰ったものは、心臓薬であるベタスと思っていた。」旨弁解している(平成五年八月一七日付け警察官調書)。

②  翌日の取調べで、被告人は、まず、警察官から被告人の尿についての鑑定書を提示されて、「私が男に注射して貰ったのは覚せい剤であることが判りました。ですから結果として私の体内には覚せい剤が残ってその一部が排出され、尿となって体外に出たものであることは確認しました。」旨供述した(同月一八日付け警察官調書―四枚のもの)。

③  次いで、当日、被告人は、その注射状況等について、警察官に対し、「一二月二八日午前一〇時三〇分ころパチンコをしているところに見知らぬ男が近寄ってきて、『お兄さん、いいのあるよ。』と言ってきた。私が、『何だ。それはベタスか催眠薬か。』と質問したところ、男が、『そうだ。』と答えた。それを注射して貰うため、自分が住んでいた寮に男を案内した。寮に着いて、私が、『それでは、うってくれ。』と言ったところ、男は、注射器とビニールに入った白い粉を手提げバックから取り出した。私は、白色の粉を見て、『何だ、それ。』と質問したところ、男が、『カルキだ。これをうつと、身体がスーとして気持ちよくなるぞ。一発分五〇〇〇円だ。』と言った。その言葉を信用し、最初は一発分をうって貰った。この男の言葉どおり身体がスーとして気持ちよくならないことから、私は、『なかなか利かないよ。あと五発位うってくれ。』と言ってたて続けにうって貰い、男に三万円を払った。男が世間話をして帰った直後に私の胸が何かに締めつけられるような激痛があり、私は、胸を両手で押さえながら表に飛び出し、他の通行人に救急車を呼ぶよう助けを求めた。救急車で一軒目の病院に運ばれて強心剤をうって貰ったが、その病院では手に負えないということで、更に別の病院に運ばれて手当を受けていたところ、刑事が来て質問をした。私が、男に薬物を注射して貰ったと話したところ、刑事から、『あなたが注射して貰ったのは薬物かどうか調べるから、警察に来て下さい。』と説得され、病院での手当てが終わったのち警察署へ行って尿を提出し、鑑定して貰うことにした。」旨供述した(前同日付け―八枚のもの)。

被告人は、当公判廷において、「逮捕されて警察で取調べを受けたとき、尿から覚せい剤の反応が出たということをグラフで示されたので、認めるような感じになった。」旨供述しているが、右の各供述調書の存在及び内容は、これを裏付けるものとなっている。

A  しかし、被告人は、検察官に事件を送致され、検察官による弁解録取及び裁判所での勾留質問に際して、その都度送致書記載の犯罪事実或いは勾留請求書記載の被疑事実(いずれも逮捕状或いは勾留状の被疑事実である「被告人は、法定の除外事由がないのに、平成四年一二月中旬から同月二八日までの間、千葉県船橋市内及びその周辺某所において、覚せい剤水溶液若干量を自己の腕部に注射した。」旨のものと同一と思われる。)を認める旨供述した。

この点につき、被告人は、当公判廷において、「検事の弁解録取のとき、検事から何か言われ、違うと思っていたから何か言ったところ、検事から、『あまり余分なことは言わなくてもいい。はいと言っていればいいから。』と最初に言われた。本当だったら認めたくなかったが、過去に検事に食ってかかって心証を悪くしたことがあったので、反論せず、はいしか言わなかった。それで検事が調書を書いたので、判子を捺した。」「裁判所の勾留質問でも覚せい剤だとは思わなかったと言うと長くなると思ったので、間違いありませんと言った。」旨弁解している。

④  勾留になった翌日、被告人は、警察官から再度注射状況について詳細な取調べを受け、前々日のそれとほぼ同一内容の供述を繰り返したが、更に、「私は、もともと心臓が弱く、時々激しい動悸が起こり、二四、五歳ころ植木屋をやっていた当時、同業者から強心剤の一種と思われるベタスという薬を五、六回たて続けにうって貰い、心臓の動悸がおさまった記憶があった。今回もベタス又はその類だと思って、その男に『それならうって貰う。』と言って、自分の寮まで案内した。途中その男の名前を聞いたが、住所等は教えてくれなかった。」「私の部屋で、その男が、最初に八割程度液体の入った円筒状の容器を取り出し、次に米粒位の大きさで丸い固まりの無色透明の粒がたくさん入った一辺がチャック式の横四センチメートル位・縦七センチメートル位のビニール袋を取り出し、その後に注射筒と針を取り出した。男は、注射筒に針を取り付けた後、ビニール袋を振って丸っこい粒二個位を円筒状の容器に入れた。ベタスはアンプルに入った無色透明な液体なので、不審に思って、私が、ビニール袋を指して、『何だい、それ。』と質問したところ、男が、『カルキだよ。』と答えた。『カルキってなんだい。』と更に質問したところ、『これは身体がスーとして気持ちよくなるぞ。』とのことだった。そのとき私は、心の片隅に、それは本来のベタスではないな、もしかしたらこの丸い粒は法で規制されている薬物ではないかと思ったことも事実です。でも、今更無碍に断っても男に失礼であり、喧嘩にもなりかねないことから、黙ってうって貰うことにした。」「前回の取り調べで、一回うっても気持ちよくならないので、あと五発分の計六発をうって貰ったと話したが、取調べが終わった後よく考えてみると、最初から男に『六発分うってくれ。』と言って、六発分うって貰っている。」「私は、前回の取調べで、話すのが面倒くさいことから、単純に昔うったことのある強心剤であるベタスと話したが、男が容器にビニール袋から丸い粒を入れた時、心の奥底には、何か法で規制されているような物を入れているのではないかと半信半疑のままうって貰ったものです。」と付加訂正している(同月二〇日付け警察官調書)。

⑤  そして、その三日後の警察官による取調べに際しても、被告人は、かつてベタスを自己使用していた状況を詳細に供述すると共に、「男から注射して貰った物が、私が思い込んでいたベタスではなく、後日自分が提出した尿の検査から覚せい剤であることは判りました。この日、男が米粒位の物をビニール袋から出して円筒状の容器に入れたとき、私は、『何だ、それ。』と質問したが、このとき私はふと、そこら辺の医者や薬局で売られているような代物ではない、何か国で認めていない薬物だなと思った。」旨の供述を繰り返した(同月二三日付け警察官調書)。

右の④、⑤の各供述調書では、いずれも被告人が覚せい剤性の認識を否認したものとみられる。そうすると、Aの被告人の検察官に対する弁解録取書及び裁判官による勾留質問調書も、被告人の前掲の公判廷での弁解状況からすると、被告人が覚せい剤を使用したことを認めた証拠とは直ちに扱い難く、被告人は、逮捕後一週間は自己が使用した薬物が覚せい剤であることは知らなかったとしていたものとみることもできる。

B ところが、被告人は、同月二四日付け警察官調書から、「本当は、男が容器に入れたのは、ひょっとしたら覚せい剤ではないか、いやひょっとしたらこの類のものではないかと思ったのが本心です。」との記載に応じ、その翌々日の検察官調書でもその記述が維持されている。

被告人が右の自白調書の作成に応じるに至った理由について、その警察官調書には、「今まで本当のことを言わなかったのは、私は、今回、八王子で傷害事件を起こし、又船橋警察署に覚せい剤取締法違反で捕まり、どうせ、二つの被疑事実により懲役に行くのなら、二つの事実を認めて早くお勤めすなわち懲役に行って早く出所したいことばかり考えており、それ以外頭になかったのです。ですから今回覚せい剤容疑で捕まった件についても、どうせ起訴されるのだから、早く認めて懲役に行こうとばかり思っておりました。」「刑事さんから昨日の取調べで、再度真実を話すように言われ、又筋道をつけて話すようにとも言われました。そこで、警察の留置場に戻り、自分自身が今まで過ごしてきた道を振り返ってみますと、自分は何事においても物事を安易に考えて行動を起こし、それが良い結果にはつながらなかったこと…等を考えると、自分が惨めになり情けなくなったことから、今日は筋道を立てて話します。」と記載されている。

右の警察官調書の記載は、その主旨が不明瞭であるが、その前段部分では、被告人が逮捕当初から覚せい剤使用も起訴されるものと諦め、早く認めて懲役に行こうとばかり考えていたとするのであるから、前記①ないし⑤の各供述調書も被告人が素直に真実を供述(覚せい剤性の認識は否定)していたものとみることができよう。

検察官は、右警察官調書の後段部分に、「自分は何事においても物事を安易に考えて行動を起こし、それが良い結果にはつながらなかったことを考えると、自分が惨めになり情けなくなります。」とあるのをもって、被告人が真実を話すようになった動機のようにみているようである。しかし、その供述は、被告人が自己の軽率な行動を悔いているとはいえ、従前の否認を自白に転じるに至った動機或いは従前否認していた理由までを明らかにしているものとは認め難く、これに引き続いて、「今日は筋道を立てて話します。」となっているのを見ると、警察官において、被告人のこれまでの供述調書には覚せい剤性の認識の自白の記載部分がないため、被告人に対し、これまでの自供調書では不十分である旨を説明して、自白調書の再度の作成に応じさせることにしたのではないかとの懸念が生ずる。

ともあれ、被告人の筋道を立てたとする供述内容をみると、「昨日、私は、男が容器に米粒位の丸い物二つ位を入れたことから、その時何か変な物で、国が認めていない薬物だなと申しましたが、実は、覚せい剤かその類の物であることは心底では思っておりました。と申しますのは、実際には今まで覚せい剤という物は見たことはありませんけれども、テレビドラマや新聞等で読んで知っておりました。又覚せい剤には注射器が必要であることも知識として心得ておりました。更には見知らぬ男から声をかけられ、その後私はベタスをうってくれると思って自分の部屋に案内した後、男が円筒状の容器を出したとき、私が使っていたアンプルに入ったベタスとはあまりにも違いがあることから、不審に思ったのです。あともう一点は、男が丸い粒をビニール袋から取り出しましたが、そのビニール袋に不審感を持ったのです。私は今まで覚せい剤はビニール袋に入っており、そのビニール袋は人が持ち運びに便利なように小さい袋であることは知っており、男がバックから取り出した袋は、私の思っていたビニール袋の大きさとほぼ一致していたことから、私は、男が持っていたビニール袋は、ひょっとしたら覚せい剤の入ったビニール袋ではないかと思ったのです。以上のような状況から、覚せい剤かその類ではないかと思う反面、私が男に質問したときに、その男の、身体がスーとして気持ちよくなるぞ、という言葉に興味を示し、又自分が思っていた覚せい剤をうつとどんな感じだろうと思いつつうって貰ったのです。」となっている。

右の供述内容をみると、それまでの供述調書での被告人の供述状況と趣を異にし、あまりにも論理的である。

ちなみに、被告人は、公判廷においても、質問に対し必ずしも直ちに的確な答えを出すことができず、それでいて弁明しようとするため、その供述の主旨が不明となり、更には供述に一貫性を欠くこともあったのである。

そもそも被告人は、第二回公判での本件に関する冒頭の陳述で、「そのとおり間違いありません。」と述べ、そのため弁護人も、被告人と同様である旨意見を陳述して、検察官の請求証拠に全部同意したところ、被告人質問の段階になって、被告人が、「覚せい剤だとは思っていませんでした。」と言い出し、裁判所から、「被告人としては処罰されては困るということですか。」と尋ねると、被告人は、「覚せい剤だという結果になった以上、処罰されても仕方がないとは思っています。ただ、私としては、そういう結果に至るまでの経過を言いたかったのです。」と答えていた。しかし、弁護人が無罪の弁論をしたため、裁判所から、「それでは、更に証拠調べをせざるを得ません。」と話すと、被告人は、「長くなるのなら、もういいです。」と発言したという経過もある。

このような被告人の公判での発言状況をみると、被告人が、そもそも前掲自白調書にみられるような論理的な供述ができたのか疑問が生ずるとともに、被告人には、捜査当初から、自己の尿から覚せい剤が検出されたことによる諦めがあって、本件につき処罰されてもやむを得ないとの姿勢があったことが窺われる。

確かに、被告人の捜査当初の供述内容は、「見知らぬ男が、『お兄さん、いいのあるよ。』と言ってきたので、『何だ。それはベタスか催眠薬か。』と尋ね、男が、『そうだ。』と答えたので、寮に案内した。それを注射をして貰おうとしたところ、男が、米粒大の無色透明の結晶の入ったビニール袋と注射器を取り出し、『何だ。』と尋ねると、男が、『カルキだ。これをうつと、身体がスーとして気持ちよくなる。一発分五〇〇〇円だ。』と言ったので、本来のベタスではなく、もしかしたら法で規制されている薬ではないかと思ったが、今更無碍に断っても男に失礼であり、喧嘩にもなりかねないことから、黙ってたて続けに六回うって貰った。」というものであり、そこにみられる被告人の行動はあまりにも無思慮、無謀であって、不審を抱かざるを得ないのではあるが、しかし、被告人の生育歴や行状をみると、被告人は、中学校を卒業後プロボクサーを目指してその道に入り、これを果たせずに、その後道路舗装作業員となって現場を転々とし、傷害事件等を引き起こしては服役を繰り返し、最近でも前掲有罪認定にかかる傷害事件を引き起こしていること、本件薬物使用により急性中毒に陥っていること、被告人自ら「自分自身が今まで過ごしてきた道を振り返ってみますと、自分は何事においても物事を安易に考えて行動を起こし、それが良い結果にはつながらなかった」などと述懐する行動傾向を有していることなどを考え併せると、被告人の供述する無思慮、無謀な本件薬物使用状況も了解することができ、被告人の捜査当初の供述に信を措けることになる。

そうすると、被告人の前掲警察官に対する自白調書の方に警察官が被告人に理詰めの尋問をし、これに被告人が迎合してできあがったものでないかとの疑いが生ずるのである。

このような疑いを生じさせないためにも、前記自白調書の信用性を補強する捜査があって然るべきであり、例えば、「男がバックから取り出した袋は、私の思っていたビニール袋の大きさとほぼ一致していた」というのであるから、更にどうして「ほぼ一致していた」と言えるのか、その供述を具体化して詳細にさせるとともに、被告人がテレビドラマ或いは新聞等を見て、覚せい剤の入ったビニール袋の形状についての知識を得ており、それと対比したというのなら、そのテレビドラマ等の存在及びその内容を裏付ける捜査をすべきところ、これがなされていない。

加えるに、被告人が、当公判廷において、「刑事は、『覚せい剤事件を認めても、刑期は二、三か月しか増えない。俺の顔を立ててくれ。』と常に言っていた。私は、いつまでたっても平行線なので、刑期が二、三か月増える程度ならそれでいいですよ、と言った。」として、右の自白調書の作成に応じた動機を供述していることを併せ考えると、被告人の警察官に対する前掲自白調書の信用性は疑問があるといわざるを得ない。

その後作成された被告人の検察官調書も、右の警察官に対する自白調書の供述内容をほぼそのまま踏襲するものである。なお、右の検察官調書には、覚せい剤性の認識があったことを自白するに至った事情についての記載がない。この点について、取調べ担当検察官は、当公判廷において、「被告人が私の面前では否認していなかったので記載しなかったが、被告人は、覚せい剤であることを知っていたと認めると、傷害事件で起訴されている上に覚せい剤事件で処罰されて刑期が重くなると思い、言いにくかったと話していた。」旨供述する。しかし、検察官の供述する被告人の否認の理由は、一般論的なそれであって、前掲の警察官調書の記載と一致しているとは認め難く、直ちにはこれを採り得ない。

そして、右の被告人の検察官に対する自白調書は、それまでの警察官調書の要約的なものとなっており、被告人が、当公判廷において、「次に検事のところへ行ったとき、検事から、一言だけ、『ベタスの件はだめだから。』と言われた。検事は色々なことをパァーッと調書に書いて、それを読んでくれて、それに私は判子を捺した。」旨供述し、取調べを担当した検察官も、「被告人は、非常に素直で、言うことにも一々うなづいており、私は、間違いないなと理解した。争うこともなかった被告人なので、そんなにまで念入りに調書をとるということはしなかった。」旨公判廷で供述していることからすると、被告人の右供述も直ちに排斥し難く、被告人の検察官調書が独自に信用性を有するものとはいえない。

(被告人の行動状況について)

被告人の当公判廷における供述及び被告人の前掲各供述調書によれば、①被告人は、これまで覚せい剤にかかわったことが全くなかったこと、②被告人は、氏名不詳者から本件薬物をたて続けに六回も注射して貰い、そのため救急車で病院に搬入され治療を受ける事態に陥っていること、③通報により来院した警察官から事情聴取を受けた被告人は、警察署に行って自己の尿を任意に提出して、これを鑑定に回すことを承諾しており、その後警察署に電話をかけて、鑑定結果を尋ねていることが認められる。

右①ないし③の認定事実からすると、被告人は、覚せい剤について知識が乏しく、本件の薬物も覚せい剤であるとの認識・認容が未必的にせよなかったのではないかとの疑いを生ずる。

4 そうすると、被告人の前記自白調書の信用性に疑問があるうえ、被告人の行動状況をみると、被告人に覚せい剤性の認識がなかったのではないかとの疑問が生ずることからすれば、本件における被告人の犯意の証明は不十分であるといわざるを得ない。

以上の次第で、被告人の覚せい剤取締法違反被告事件については無罪の言い渡しをする。

よって、主文のとおり判決する。

(裁判官林潔)

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